飲み物でも買おうかと、自販機まで向かうリナのポケットの中で、不意に携帯電話が震えた。
 何気なく手を取り、表示された人物の名前を見て、首を傾げる。

「もしもし?」

 通話ボタンを押して声をかけると、一瞬、電話の向こうで、相手が驚いたように息を呑んだのが分かった。

『あっ、リナ・・・?』
「そうよ、当たり前じゃない」
『今日は残業するって、言ってなかったか?』

 なんだ、覚えていたのかと、リナは胸中で呟く。
 ガウリイのことだから、忘れていたとか聞いていなかったとかで、電話をしてきたのではと思ったのだ。

「そうよ。ちょっと飲み物買うのに抜けてきただけ」
『そっか・・・。じゃあ、帰りは遅くなるんだな』
「んー・・・そこまで遅くはならないと思うけど・・・っていうか、なにか用があって電話してきたんじゃないの?」
『あっ、いや・・・』

 電話の向こうで、ガウリイが口ごもる。
 いつもと様子の違うガウリイに、少しだけひっかかった。

『なんでもないんだ。ちょっと、声が聞きたくてな』
「なによそれ?」
『本当になんでもない。じゃあ、邪魔して悪かったな』

 一方的にそう言って、ガウリイが電話を切る。
 通話が終了した電子音を聞きながら、リナは手元の携帯電話を見下ろした。



 自分の机に戻っても、リナはさっきの電話が気になって、仕事に手が付かないでいた。
 こんな電話、初めてだ。
 たまにこっちが思いもしないことをしてくる奴だが、こんな意味のないことをしてきたことはなかった。
 本当は、なにか用事があったんじゃないだろうか?
 机の上に置いた携帯に目を落とすが、当然だが、電話はあれから鳴っていない。
 嫌な感じがする。それは、何度振り払おうとしても、リナの不安を掻きたてた。

「先輩、どうしたんですか・・・わっ!」

 話しかけてきた後輩の声を遮るように、リナは立ち上がった。
 ガサガサと、乱暴にカバンの中に私物を突っ込むと、それを肩にかける。

「あたし、帰るわ」
「ええええええ」

 驚きの声が、後輩の口から上がった。

「だって、今日は俺の仕事手伝ってくれるって・・・」
「用事ができたの。あんたもトロトロしてないで、サッとやったらサクッと終わるんだから、これくらい。じゃあね」
「せんぱい〜!!!」

 泣きそうな後輩の声を背後に聞きながら、リナは急いで会社を後にする。
 すでに街は街灯を灯し、夜の装いを終えていた。
 時計を見ると、すでに七時を回っている。
 リナは携帯を取り出し、ガウリイへと電話をかけた。

 プルルルルル プルルルルル

 無機質な着信音が鳴り響くが、一向に、ガウリイは電話に出ない。
 じれったくなり、電話を切ったリナは、足早に駅を目指した。
 この時間なら、ガウリイはもう家にいるはずだ。
 電車の中でも、収まらない胸騒ぎに、リナはカバンの紐を握り締める。
 大丈夫。こんなの気のせいよ。
 何度も言い聞かせながら、リナは窓の外に目を向けた。
 いつも通りに流れる景色が、今日はやけにゆっくりに感じて、じれったさにリナの中の焦りは募る。
 ようやく地元の駅に到着し、改札を抜けたリナは、そのまま走り出した。
 街行く人が不思議そうな顔でこちらを見るが、そんなのに構っていられない。
 ほどなく見えた、我が家のマンション。
 エレベーターのボタンを押し、なかなか降りてこない数字パネルに、痺れを切らして、階段へと向かう。
 ハイヒールの甲高い音が、人気のない非常階段に響いた。
 四階まで一気に駆け上がり、部屋の鍵を乱暴に開けると、勢いよく扉を開く。

「ガウリ・・・」

 中に入ったリナは、思わず言葉に詰まった。
 明かりの灯っていない部屋は暗く、住人がまだ帰っていないことが伺える。
 ガウリイの方が、先に仕事を終わらせているはずだ。
 リナが先に帰り着くなんて、あり得ない。
 わだかまる闇が、リナの不安を益々増長させる。
 探しに行こう。
 そう思い、リナが踵を返した、その時、

「あっ、リナ!」

 エレベーターの方から、呑気な声が聞こえてきた。
 買い物袋をぶら下げたガウリイが、こちらに向かって手を振っている。

「ガウリイ・・・?」

 その姿を見た途端、それまで澱んでいた不安が、一気に霧散した。
 知らず、緊張していた肩の力が、ようやく抜ける。

「どうしたんだ? 帰り遅くなるんじゃなかったのか?」
「それはこっちの台詞よ!」

 ホッとした途端、今度は怒りが込み上げてきた。
 ガウリイに詰め寄ると、彼は訳が分からないと言った顔で、目を白黒させている。

「あんな電話して来たら、心配になるじゃない!」
「電話・・・って、ああ、あれか・・・」

 なにかを思い出したのか、ガウリイは罰が悪そうな顔で頬を掻いた。

「なんだったのよ、あれ」
「いや・・・たいしたことじゃないんだが・・・」
「残業切り上げて、わざわざ帰ってきたあたしに言う台詞、それが?」

 ジト目で睨み付けてやると、ガウリイは逃げ場を求めて視線を彷徨わせていたが、やがて観念したのか、ポツリと呟く。

「歯医者・・・」
「はっ?」
「今日、歯医者行ったんだ・・・。それで、ちょっと憂鬱で、リナの声が聞きたくなって・・・」
「はああああああ?」

 素っ頓狂なリナの声が、マンションの廊下に響き渡った。

「なにそれ! そんなことで電話してきたの!?」
「だから、悪かったって」

 苦笑いをしながら、ガウリイが謝る。
 脱力したなんてものじゃない。
 大仰にため息を付くと、リナは思わずその場に座り込んだ。
 下らなさすぎる理由に、そしてなにより、あんなに不安がった自分がバカらしくて、思わず笑いが込み上げてきた。

「リ、リナ・・・?」

 突然クツクツと笑いだすリナに、ガウリイは狼狽えながら声を上げる。

「あー、ホント、バッカみたい。歯医者くらいで怖がってるんじゃないわよ、あんたも」
「だ、だって・・・」

 さすがに気恥ずかしかったのだろう。微かに、ガウリイが頬を染めた。

「まあいいわ。それより、ご飯にしましょ。今日なにするつもりだったの?」
「カレーにしようと思って、材料買って来た」
「まさか、またカレーの王子様とか、買って来てないでしょうね?」
「・・・・・・買った」
「また!? その年になってそれって、いい加減どうにかしたら?」
「だって、リナの作るカレー、辛すぎるぞ」

 騒ぎながら、二人は揃って部屋に入る。
 扉が閉まるまで、にぎやかな声が、止むことはなかった。







Ring tone







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